数学に魅せられて,科学を見失う

 ザビーネ・ホッセンフェルダー「数学に魅せられて,科学を見失う -物理学と「美しさ」の罠-」みすず書房,2021

すでにいくつもの書評が見られるので,気になった点だけメモしておく.これは素粒子物理に関する本で,スイスの大型加速器LHCでいまだに標準模型で説明できないような現象が見られないことをどう考えるべきか,を著者なりの視点で考察している.LHCの成果が,"Higgs and nothing else" (ヒッグス粒子は見つかったが他の(標準模型を超える)新粒子は見つからない)だった場合を "nightmare scenario" などと言うらしいのだが,現状まさにそのシナリオになっている.多くの物理学者はLHCで超対称性の証拠が見つかると期待していたが,どうやら最も期待したエネルギー領域にはなさそうな雰囲気である.超対称性理論は標準模型の矛盾を解決するものではなく,「自然さ」を解決するものである,と著者は言う.例えば,1つの小さい数を得るために非常に大きな2つの数の差を取らなければならないとき,それは「不自然」であるという.標準模型にはこうした「不自然さ」が見られるのだが,超対称性理論ではこの不自然さが解消され,なおかつ理論的にも「美しい」とのこと.しかし,自然さも美しさも人間の感覚であり,素粒子を記述する理論が人間の好みと一致して自然で美しいものであるとは限らない.実験データが存在しないなかで物理学者のよりどころになっていた「自然さ」「美しさ」「単純さ」について,今一度考えなおしたほういいのではないか,と訴えている(それらは本当に解決すべき問題なのか,ということを含めて).その昔,太陽と地球の距離は何か特別なメカニズムによって人間が住める絶妙な距離になっていると考えられていたが,結局そのような距離を「自然に」導く理論はなく,原始太陽系の初期条件によるまったくの偶然であることがわかっている.標準模型も本当に自然さを必要とするのか,色々な事例を見ていくとよくわからなくなってくる.ただ,不自然であってもよいとしたところで,その不自然さを納得できるような理由づけがほしくなるのではないだろうか.
 
 標準模型に存在する真の矛盾は重力理論との不整合であるが,その解決には「観測事実による導きが必要(P300)」とのことで,こちらは身も蓋もない.